海運プラザ クローズアップ明和

第10回明和船団オーナーズ

明和海運では、自社で所有している船舶(4隻:注)と船主(オーナー)から借りて運航している船舶(13隻:注)によって、明和船団を構成しています。(注)2013年1月現在

このコーナーでは、明和海運のファンネルマークを付けた船舶を所有し、荷主様のご要望にお応えすべく、高い運航品質の維持に取り組んでいる明和船団のオーナーを数回に分けてご紹介します。

徳栄海運株式会社 代表取締役社長 清水 康博 さん

【会社概要】

会社名 
: 徳栄海運株式会社
所在地 
: 三重県伊勢市浦口4-3-1
社 長 
: 代表取締役 清水 康博
所有船舶 
: 第25徳栄丸(だいにじゅうごとくえいまる)
第25徳栄丸

~オーナーへの道~

オーナーへの道

私の父は元々漁師でしたが、戦争に行き、 陸軍の軍人となり、終戦後はシベリアでの抑留生活を送った後、日本に帰国しました。その後、再び小漁師から始め、2~3人乗りの小さな船に乗って、潮岬でクエマス(大きなマス:高級魚)を釣っていました。当時、父がクエマスを釣る方法(仕掛け)を考えだし、相当な漁をしていたと聞いています。そこで財を築き、少しずつ船を大きくしていき、遠洋マグロ漁をするようになりました。

私が生まれた昭和36年に漁船を売って、商船(タンカー)に切り替えました。当時は漁船の全盛期でした ので、権利も含めて高く売れ、タンカーを造ってもお金が余った程だったようです。
父が何故、漁船の全盛期にタンカーに切り替えたか、その理由を直接は聞いていませんが、戦争に行ったので色々思うことがあったでしょうし、日本は島国だから船がないと成り立つ国じゃないともよく言っていましたので、漁師も大事な仕事ですが、エネルギーとかケミカルは一番生活に密接していますから、 今後の日本を思う気持ちや考えもあったのではないかと思います。
そんな父でしたから、私に跡を継がせるために鳥羽商船に入ることを薦め、私は親の敷いたレールの上に乗りました。正直、当時はまだ船に乗り跡を継ぐことに対し、決心がつかず心が揺れていました。他にやりたいことがあった訳でもなく、一時期は家を出て学校を離れたこともありましたが、その間も父は私に跡を継がせることを諦めず、辛抱強く待っていてくれました。今思えば、そういった時期があったからこそ、親の有難みを知り、学校に戻り、船に乗り跡を継ぐ決心がついたのだと思います。
そして、私は学校を卒業してすぐに、父の会社に入り、会社の船に乗りました。しかしながら、1年程し て父の具合が悪くなったため、私は船を降りて父の仕事を手伝うようになりました。後になって知ったの ですが、その時父は余命半年と言われていたようです。結局、父はそれから何とか5年も生きるこができ ました。その間、父は入退院を繰り返しながらも仕事を続け、私は父と行動を共にしていましたが、何かを教えるという訳でもなく、職人のように見て覚えろというタイプでしたので、具体的な引継ぎ等は一切ありませんでした。このような状況でしたから、当時の私は跡を継ぐ決心はついていたものの、自分にも本当にできるんだろうかという不安もありました。そんな私に気付いてか、ある時、父が私に「大丈夫。お前ならできる。」と言ってくれました。その時は、とても心強く、背中を押されたような気がして、自分でも大丈夫だと思えるようになり、その言葉で跡を継ぐことへの自信を固めることができました。
父が亡くなった時は、従業員もいなかったので、母と私の二人だけで大丈夫かと周囲の方が心配し、支援の申し出等もありましたが、大丈夫だとそれを断り、母が社長となり、母と二人で会社を守ってきました。当時、私は28歳でした。今でも覚えているのは、父の通夜の日、私は事務所で船員の給与計算をしていました。従業員もなく母と私以外誰も仕事をする人がいなかったので、仕事を中断させる訳にはいかなかったのです。悲しいという気持ちよりも、何より仕事を続けなければという思いの方が強かったのを覚えています。
父が他界してから、私は常に母と行動を共にしてきました。その中で、実質的な経営というものを母から引き継がせてもらったのだと思っています。父と母の間で、母が80歳までは社長を続けるという話になっていたようで、80歳を目前にしたある日、母が突然社長を辞めると言いだし、私が跡を継ぎ社長となりました。私が49歳の時の事です。

~大切にしていること~

大切にしていること

社名である「徳栄海運」の由来は、父が戦争に行っている時、軍馬(愛馬)の名前が「沼徳号(ぬまとくごう)」といい、その馬の一文字をとって、船名と社名にしました。 そこには父の強い思い入れがあります。
父が戦地の荒野で寝ている時、軍馬は自分の主人を守るため、テント替わりになりずっと立ったままでいて、雪とか雨をしのいでくれたそうです。馬というのはとても頭が良く、結局、最後は父をかばったような形で弾に当たり、亡くなりました。


父はいたく悲しみ、戦時中でしたが、その馬の遺骨を中国に埋めたのですが、戦争が終わり、シベリアに抑留された後、その遺骨を中国に拾いに行きました。元々は漁師をしていましたので、「山を立てる」というのですが、漁師が山と山の位置から漁場を探すのと同じ方法で、何もない荒れた戦地で、ピンポイントで遺骨を埋める場所を決め、それを覚えていて、探し出すことができたのだと思います。
父は自分を守ってくれた愛馬とずっと戦時中共にしてきましたし、今の自分があるのはその愛馬のおかげだという思いがとても強かったため、遺骨を日本に持ち帰り、先祖代々の墓と同じ場所に愛馬の墓を建てました。人間の墓に動物の遺骨を埋めるというので、相当、墓地側は抵抗を示しましたが、父は金鵄勲章を授与されていたこともあり、その影響力もつかって大ゲンカの末に、愛馬の墓を先祖 代々の墓と同じ場所に建てたようです。
船というのは海という自然に身を任せています。ですから、偉大な自然の中で、今ここにあること、 生かされていることに対する感謝の気持ちを忘れずにいることを大切にしています。
もうひとつ、父の代から大切にしているのが「船の手入れ」です。
当社は代々船の手入れをする会社だということが船員達にも引き継がれていますので、船員達が自主的に手入れをしてくれます。父からはずっと「船には魂がある」と言われてきました。自然の中ですから、手入れする船としない船だったら、魂があれば手入れされていないのは嫌ですよね。大事にされたら船を守ってくれると思うのです。特に気を遣っているのは「船底塗料」です。エンジン等は航海中でも修理できますが、船底塗料はドックの時(年1回)しかできません。船の燃費・スピード・エンジンへの負荷にとって、船底塗料の影響は大きいのです。
実際、私達は船を動かしてお金をもらっているので、手入れしたきれいな船を提供するのが当然の仕事だと思っています。船には、乗組員の命を乗せていますし、荷主様の大事な貨物も運んでいますし、 何かトラブルがあれば荷主様からオペレーターへの信頼が崩れてしまいます。
 今は船員がいないと成り立たない仕事と言われていますが、船も同様です。船と船員が動いて、初めてお金がもらえる訳ですから、私達オーナーは「良い船」と「良い船員」を提供するのが仕事だと考 えています。「良い船」とは、手入れが行き届いていて貨物も品質管理も大丈夫な船、見た目も良い船、そして心配されるような船じゃないこと。「良い船員」とは、船内の和を大事にする、真剣に自分の力を100%発揮する、そして事故をしないこと。桟橋とのコミュニケーションをよく取れることも大事です。
会社の財産である「船」と「船員の命」、そして大事な荷主様の貨物を完全に預けている訳ですから、信頼関係がないとできません。また、それを任せられる人でなければなりません。「船を大事にする」 というのは会社の財産のひとつでもあります。ですから、当社は船員も社員も「人間性」を大事にしています。
今後も「良い船」と「良い船員」を提供し、そして「選ばれる船」になりたいです。 丘の人から見れば、また来てほしいと言われる船になりたい、そして生き残るためには、それを目指すしかないと考えています。

~オーナーってどんな人?~

オーナーってどんな人?

妻の私からは、見たままの人だと思います。
どーんと座って、口数も少ないのですが、こうと思ったらそのままそれ目がけて進む人です。
すぐ動く時と全く動かない時があり、極端で真ん中がありません。一本、自分を持っているのでブレることがなく、何をするにも白か黒かどちらかで、その中間がないのです。
主人とはいつも一緒にいますので、1日24時間、寝ている時間以外はずっと仕事の話をしています。仕事があって生活できる訳ですから、仕事が何より一番です。

清水家14代目の社長として、先祖を敬い、生かされていることへの感謝の気持ちを忘れずに、軍馬の墓がある「先祖代々の墓」には毎週、「二見興玉神社」には月1回、そして海の神様が祀ってある「青峯山正福寺」には年1回、かかさずにお参りに行っています。
口数が少ない主人とは対照的で、私は子供に対して気付いたことはすぐに口に出して言う方なので、基本的に主人が子供を叱ることはほとんどありません。ただ、何かあった時は主人に言ってもらうと、たまに なので子供達には効くようです。
家族に対してはもちろんですが、色々な人に優しい人で、私の母にも良くしてくれて、感謝しています。

オーナーってどんな人?

社員から見た社長は、物腰は柔らかいのですが、決断が早く一度決めたことはすぐに行動して、何が何でもやり通す人です。絶対に人任せにはしません。何か必要があれば、船に必要な部品等を載せて、日本全国、車で船のいる場所に行くので、車の走行距離は年間50,000kmを超えています。その行動力はすごいと思います。
また、社員は家族だと思ってくれているので、私達だけに限らず、社員の家族(父母含む)のことまで気にかけてくれるとても優しい社長です。

~オーナーさんのとっておき!~

オーナーさんのとっておき!

伊勢名物「赤福」の「朔日餅(ついたちもち)」は、知る人ぞ知る限定販売の月替わりの人気商品です!

元日を除く毎月朔日(ついたち)に限り販売され、 季節ならではの餅菓子を楽しめます。
伊勢には、毎月一日に普段より早く起きて、神宮へお参りする「朔日(ついたち)参り」というならわしが残っています。無事に過ごせた一ヶ月を感謝し、また新しい月の無事を願ってお祈りします。


この朔日参りのお客様をお迎えするために作り始めたのが「朔日餅(ついたちもち)」です。
発売開始は昭和53年で、開始当時は店で食べるのみでしたが、後に持ち帰り用が発売されるようになり、現在では、本店及び四日市市・名古屋市・大阪市・神戸市にある百貨店内の直営店で予約販売をするようになりました。
本店では午前4時45分から発売開始しますが、整理券を午前3時30分から配付しています。遠方より 買いに来る人も多く、早朝にもかかわらず整理券待ちの長蛇の列ができるほどの人気商品なのです。
中でも、一番人気は写真の「八朔栗餅」で、8月1日の発売日は早朝から多くの人で賑わいます。
月初めに伊勢にお越しの際は、是非、早起きをして朔日参りの後、赤福本店に足を運んでみてください。
毎月一日のみの限定販売、知る人ぞ知る赤福の「朔日餅」はとっておきのお薦めです!

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