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第34回船乗りたちの道しるべ

部崎? 神子元? 来島?
陸上に住む一般の人々にはいまひとつ馴染みのない、読み方すらよく分からない地名ですが、日本の沿岸には海で生きている船乗りたちにとって大昔から自分の現在位置を確認したり、進むべき方向の目印にしたり、時には悪天候による遭難から命を守るために避難したりする大切な地点が数多くあります。
このシリーズではこのように船乗りたちにとって大切な道しるべとなる場所をご紹介していきます。

Vol.4 神子元島(みこもとじま)

今回は神子元島をご紹介いたします。
神子元と書いて「みこもと」と読みます。伊豆半島先端の石廊崎(いろうざき)の南東の沖合9キロの海上に浮かぶ最長部400メートル、最高部標高32メートル、面積約0.1平方キロの小さな岩礁の島です。
太古の昔は伊豆半島と繋がっていたものが、次第に周りの土地が水没していったことによって島になったと言われています。
現在ではこの島にはマグロやカンパチなどの大物が釣れる絶好の釣り場や、ハンマーヘッドシャークの大群などが見られることで世界的に有名なダイビングスポットがあり、数多くの釣り人やダイバーたちが訪れていますが、定期船はなく交通手段は付近の港から釣り船などをチャーターするしかありません。
というのも、この島は水源も無く植物も殆ど生えない岩礁の島なので流刑者や灯台の関係者以外は人が定住していたことない無人島なのです。

流刑の島としての神子元島には次のような言い伝えがあります。
その昔、石廊崎の名家の娘のお静と貧しい漁師の幸吉が身分違いの恋に落ち、その咎を問われた幸吉は神子元島に島流しになりました。
しかし二人は神子元島と石廊崎で毎晩火を焚いてお互いの愛を確かめ合っていました。
ところがある日を境に神子元島の火が見られなくなったため、幸吉の身を案じたお静が船を仕立てて命懸けで神子元島に向かったところ、折からの季節風で船が海上で立ち往生してしまいました。
死を覚悟したお静が一心不乱に神に祈った結果、何とか神子元島に漂着して二人は再会を果たし、その一途な気持ちにお静の両親もついに二人の結婚を許し、二人は末永く幸せに暮らしました。
石廊崎の先端の熊野神社の祠が祀られている場所こそが、お静が毎晩火を焚いていた場所であると言われており、現在ではここは縁結びの神様として知られています。

このようなロマンチックな伝説のある島ですが、同時にこの島は船舶の航行上、非常に重要な島でもあるのです。
この島にある唯一の人工の建造物である神子元島灯台は、幕末に江戸幕府と列強各国が結んだ改税約書(江戸条約)で設置が決まった8箇所の灯台の一つであり、イギリス人技師R.H.ブラントンが建設に携わった現役としては日本最古の石造りの灯台です。
当然ですがこれら8箇所の灯台は当時、諸外国から日本へ来る船舶の通行上の要衝に位置しており、中でも神子元島灯台は初点灯式に大久保利通、大隈重信、三条実美等の明治政府の重鎮や英国公使ハリー・バークスが来島するほどでした。

このことは神子元島灯台がいかに重要な灯台であったかを雄弁に物語っています。
また、この小さな無人島にある灯台が国際航路標識協会(IALA)が1998年に提唱した「世界の歴史的灯台100選」に選ばれていることからも神子元島灯台の歴史的価値を伺い知ることが出来ます。
(注)世界の歴史的灯台100選の内、日本国内の灯台は5箇所。

当社は京浜工業地帯や京葉工業地域発着の航海を頻繁に運航しています。
最後の難関である伊豆半島石廊崎の沖にある神子元島は、相模湾を挟んで東京湾まであとひと息という場所に位置するため、西日本から京浜を目指す船乗りたちにはもうすぐ到着する安堵感、逆に京浜から西日本に向かう船乗りたちは、いよいよ外海に出る緊張感を感じる場所です。

神子元島は我々と船乗りたちにとっては「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」の島なのです。

写真1

神子元島全景

画像提供 下田海上保安部

写真2

石廊崎先端にある熊野神社
中央の綱の縄が巻いてある岩の向こう側で、毎晩お静が火を焚いていたと伝えられている。後にその場所に熊野神社の祠が祀られるようになった。写真左上に小さく神子元島が見えている。

画像提供 南伊豆町観光協会

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