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第36回船乗りたちの道しるべ

部崎? 神子元? 来島?
陸上に住む一般の人々にはいまひとつ馴染みのない、読み方すらよく分からない地名ですが、日本の沿岸には海で生きている船乗りたちにとって大昔から自分の現在位置を確認したり、進むべき方向の目印にしたり、時には悪天候による遭難から命を守るために避難したりする大切な地点が数多くあります。
このシリーズではこのように船乗りたちにとって大切な道しるべとなる場所をご紹介していきます。

Vol.6 出洲(でず)

今回は出洲をご紹介いたします。
出洲と書いて「でず」と読みます。千葉県市川市の葛南地区から袖ヶ浦市の南袖ヶ浦地区までの海岸線延長約133キロにわたる日本一広い港である千葉港のほぼ中央部に位置する千葉中央地区にある埠頭の名前です。
出洲埠頭は公共交通機関ではJR京葉線と千葉都市モノレールの千葉みなと駅から徒歩約10分。また、千葉都市モノレールの千葉みなと駅は千葉駅から僅か4分の距離なので、出洲はまさに千葉の中心部からは目と鼻の先の距離にある埠頭と言えるでしょう。

千葉港の中でも出洲埠頭と千葉中央埠頭のある千葉中央区は千葉港の発祥の地です。
その歴史は古く、鎌倉時代に現在の千葉市の中心部を流れる都川(みやこがわ)河口に発生した寒川湊(さむかわみなと)と呼ばれる原始的な舟着場まで遡ることができます。
江戸時代末期には農作物を江戸や横浜に運ぶ海運が盛んになり、寒川湊は出荷港として栄えました。ところが、明治時代に入って鉄道(総武線)が開通したことにより、輸送手段が海運から鉄道に移ってしまったため寒川湊は次第に衰退していきました。

しかし、明治43年に県が都川河口および周辺を浚渫して船溜まりを設け、その船溜まりに沿って11万平方メートルの出洲埋立地を作り、そこに荷揚げ場を移して港湾としての基礎を整えました。
これが、現在に続く近代港としての千葉港のスタートです。
その後、千葉港は大正・昭和と時代と共に拡張していき、太平洋戦争のために一時期中断したものの、京葉工業地域の発展と共に西は船橋・市川方面そして、南は五井・市原方面へと拡張を続けていきました。

当社のオペレーションするケミカルタンカーは通常の場合、石油化学工場の桟橋には揚荷役や積荷役時しか着桟する事ができないため、荷役終了後は直ちに離桟しなくてはなりません。
従って、船乗りたちは積荷役および揚荷役中の数時間を除けば基本的には他の殆どの時間を海上で過ごすことになります。
そのためには、船上生活に必要な食料や日用品などの物資を調達しなくてはならないのですが、上記の通りケミカルタンカーは荷役時間以外は運航しているか海上で待機をしているため、なかなか物資の買い出しに行くことができません。

工場での荷役中に必要な人数を船に残して船員が交替で買い出しに出ることもありますが、荷役時間の短い航海が連続した場合にはそれもできません。
そのような場合には、着桟可能な公共桟橋、埠頭に船を着桟させて上陸する必要があるのですが、ケミカルタンカーのような危険物搭載船は着桟可能な箇所が非常に限られているのです。

出洲埠頭はケミカルタンカーの着桟が可能な日本では数少ない公共埠頭です。そのため、当社をはじめ様々な海運会社のケミカルタンカーが京浜工業地帯や京葉工業地域での荷役を終えた後や、翌日の荷役を控えての待機などの際に船員たちの食糧調達や上陸休憩のために集まって来ます。

渡り鳥が大海原を走る帆船のマストに止まって翼を休めるように、来る日も来る日も海上で生活する船乗りたちにとって出洲埠頭はひと時の安らぎを与えてくれる止り木のような存在なのです。

写真1

写真2

上空から見た出州埠頭
後方に見えるのが千葉市中心部

画像提供 千葉県土木整備部港湾課

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