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第42回船乗りたちの道しるべ

部崎? 神子元? 来島?
陸上に住む一般の人々にはいまひとつ馴染みのない、読み方すらよく分からない地名ですが、日本の沿岸には海で生きている船乗りたちにとって大昔から自分の現在位置を確認したり、進むべき方向の目印にしたり、時には悪天候による遭難から命を守るために避難したりする大切な地点が数多くあります。
このシリーズではこのように船乗りたちにとって大切な道しるべとなる場所をご紹介していきます。

Vol.12 佐渡島(さどがしま)

今回は佐渡島をご紹介いたします。
新潟県の約60キロ沖の日本海に浮かぶ、片仮名のエの字のような形をした、面積は北方領土を除けば日本国内では沖縄本島に次ぐ二番目に大きな島です。
人口は約5万9000人、以前は両津市をはじめとして、島内でいくつかの市町村に分かれていましたが2004年の市町村合併により現在では島全体が一つの佐渡市となっています。

不思議なことに、この島の読み方は国土地理院と海上保安庁が作成した標準地名集や決定地名集、文部科学省では「さどしま」となっているのに対して、国土交通省や外務省が関与する世界地図のスタンダード版、離島振興関係法指定離島の地域名では「さどがしま」となっています。
公的な機関が正式に採用しているものなので、どちらの読み方も間違いではないということになりますが、地元新潟県の人にとっては、この島は新潟県を大きく4つに分けた「上越地方」、「中越地方」、「下越地方」、「佐渡地方」の一つであり、ただ単に「さど」と呼んでいる場合が多く、人々の日常の生活では読み方の違いで困る事はあまりないようです。

もともとは、この島には大化の改新以降、佐渡の国と呼ばれる国が設置されていましたが、その後、長い歴史の中で順徳天皇や日蓮など多くの人々が京の都から流人として流されてきました。
流人とはいえ殺人犯などの凶悪犯は少なく、文化人や政争に敗れた貴族などが政治犯として流されてくるケースが多かったので、この島には都の文化がそのような流人と共に多く伝わってきました。
一つの例を挙げると、この島では能が盛んで江戸時代には200以上、現在でも32もの能舞台が残されており、人口に対する能舞台の数は江戸時代も現在も全国一を誇っています。

また関ヶ原の戦いの翌年の1601年にはこの島に金山が発見され、徳川幕府はこの島には藩を設置せず、天領として幕府の直轄地にして管理するようにしました。したがって佐渡には大名は存在せず、佐渡奉行が幕府の出先機関としてこの島を治めていました。
このように京の都の文化の影響や、江戸の直轄地としての位置づけ、更には寄港する北前船によってもたらされた各地の文化が混ざり合い、佐渡には独特の文化や歴史が生まれ、繁栄していったのです。

しかし、江戸時代の末期に金の産出が減少するにつれ佐渡のにぎわいも次第に薄れていき、金の積出港や北前船の寄港地として栄えていた小木港や赤泊港も衰退していくことになっていきました。
それに代わって明治以降、日本が諸外国に対して開いた開港5港の内の一つである新潟港の補助港として、佐渡の両津港が指定されてからは、両津が佐渡の玄関口として発展していきます。現在では新潟市街地の中心を流れる信濃川河口にある新潟西港から佐渡の両津港まで、大型フェリーおよび高速艇のジェットフォイルがそれぞれ1日5往復、合計10往復(平成27年11月現在)している新潟-佐渡間の大動脈となっています。

意外なことに、佐渡の気温は海流の影響により新潟県の本土側よりも高めで、降雪量ははるかに少ないのです。そのため現在の佐渡の主産業は農業で、稲作や果樹栽培が盛んです。もちろん島内にも工業はありますが、精密機械工場や縫製工場が中心で石油化学工場はありません。
従って、本来であればケミカルタンカーが佐渡に行く必要はないのですが、実は当社のオペレーションするケミカルタンカーは人知れず佐渡まで行き、両津湾でよく錨泊しているのです。

当社は京浜から新潟東港まで液体ケミカル製品を定期的に輸送しています。
冬の日本海は大陸からの北西の強風が吹きつけ、海が荒れることが頻繁にあります。時に、荒波の中をやっとの思いで新潟までたどり着いても荒天のため荷役作業が危険と判断されれば、その日の荷役は中止となります。
しかし、新潟東港ではケミカルタンカーは危険物を積んだままでは錨泊ができないという規則があるため、港内で待機が出来ないケミカルタンカーは、いったん港外に出てなくてはなりません。新潟市街地のすぐそばにある新潟西港にも危険物搭載船は待機ができないため、日本海の荒波を避けて錨泊することができる最も近い場所が佐渡の両津湾なのです。
最も近いと言っても当社の運航するケミカルタンカーの速力では両津湾まで片道4時間も要します。そして、翌日荷役が出来ると判断されると、再び4時間かけて両津湾から新潟東港まで戻っていくのです。
つまり待機をするだけの為に時間と労力と燃料を使って往復8時間もかけて新潟東港と佐渡の両津湾を行き来しているのです。

今から約300年以上も前に、松尾芭蕉が「荒海や佐渡によこたふ天の河」と詠んだ日本海の荒海の光景ですが、現代のケミカルタンカーの船乗りたちも荷役が出来ない荒天の時には、当時と変わらない荒波を乗り越えて、ひたすら佐渡島を目指して航海しているのです。

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京から佐渡に伝わった代表的な伝統文化「能」

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本土側から見た日本海、画面右上に佐渡の山々がかすかに見える。

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両津湾を航行するジェットフォイル。後ろは大佐渡山地。

(画像提供 公益社団法人 新潟県観光協会)

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