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第59回船乗りたちの道しるべ

部崎? 神子元? 来島?
陸上に住む一般の人々にはいまひとつ馴染みのない、読み方すらよく分からない地名ですが、日本の沿岸には海で生きている船乗りたちにとって大昔から自分の現在位置を確認したり、進むべき方向の目印にしたり、時には悪天候による遭難から命を守るために避難したりする大切な地点が数多くあります。
このシリーズではこのように船乗りたちにとって大切な道しるべとなる場所をご紹介していきます。

Vol.17 八幡浜(やわたはま)

今回は八幡浜(やわたはま)をご紹介いたします。
八幡浜市は愛媛県の西の端、佐田岬半島の南側の付け根部分に位置する人口約3万5千人の港町です。
八幡浜の西側は宇和海に面しており、大分県の佐賀関までは豊後水道を挟んで直線距離で僅か50キロしか離れていません。そのため古くは四国と九州、更には四国と近畿地方を結ぶ海上交易が盛んにおこなわれ、当時は「伊予の大坂」とも称せられるほどの海上交通の要衝でした。
現在でも年間約40万人もの人々が大分県との往来に利用する八幡浜港を擁する四国の西の玄関としての重要な役割を担っています。

八幡浜は四国では初めて電灯が灯されるなど、早くから西洋文明を取り入れた町であり、市内には明治時代の紡績工場の赤レンガ倉庫や洋館など、歴史ある建造物が数多く残されています。

赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫
画像提供 八幡浜市観光物産協会

更に歴史を遡ると、八幡浜には次のような哀しい平家落人伝説の残る平家谷があります。
壇ノ浦の戦い(1185年)に破れ、各地に落ち延びた平家の落人の内、平有盛系の一族8名は八幡浜市の北部の、昼でも暗いうっそうとした山中に住み着いて、人目を忍んでひっそりと暮らしていました。
しかし、3年ほどが過ぎたある日、白鷺の群れが近づいてくるのを見た見張りの者が、白い旗を掲げた源氏が押し寄せてくると見間違えてしまい、それをそのまま皆に報告してしまいました。
落人たちは相談の上、一族の血を残すために2人だけを残し、後の者は囚えられて殺されるよりは潔く自刃して果てていったのです。
なお、現在の平家谷は、ニジマス釣りやそうめん流しなどが楽しめる公園として整備されており、休日には数多くの人々が訪れる観光地となっています。

平家谷

平家谷
画像提供 八幡浜市観光物産協会

歴史があるという点では八幡浜という名前自体には更に古い歴史があります。この地の浜に応神天皇(在位西暦270年~312年)と言われている八幡大神(やはたのおおかみ)が降り立たれたという伝説から八幡浜という名前が生まれたとされていますが、この名称の正式な記録は壇ノ浦の戦いの更に以前の養老年間(717年~724年)には既に存在していたというのです。
東京という地名がせいぜい150年前に誕生した事と比べると遥か約1300年前から正式に記録のある地名が現在でもそのまま使用されているというのは、八幡浜市の名前が、いかに古い歴史があるかということがお分かりいただけるかと思います。

さて、現代の八幡浜の主な産業は宇和海に面した山の斜面で、温暖な気候を利用して栽培する全国的にも有名な温州みかんなどのブランドみかんの栽培と西日本有数の水揚げ高を誇るトロール漁船を中心とする漁業です。
松山や高松などの大きな都市ではなく、この小さな町に四国一大きな魚市場が設置されているのは少々意外な感じがしますが、これは八幡浜が非常に漁業の盛んな町であるという事の証でもあります。
海上交通の要衝で、更に漁業が盛んであるということは、必然的に造船業も古くから営まれていました。
近代以前の造船業は、あくまでも伝統的な船大工による個人事業のレベルのものでしたが、時代が昭和に入ると本格的に木造の造船が始まりました。
その後、第二次世界大戦を経て昭和三十年代からは市内数か所の造船所で鋼船の建造が行われるようになりましたが、それらが統合して株式会社栗之浦ドックとして現在にまで至っています。

私たちの運航しているケミカルタンカーは一般のオイルタンカーと違い、貨物タンクに加工の難しいステンレスを使用しています。更にケミカル製品を搭載するためには各種の特殊な装備が必要であるため、ケミカルタンカーの建造には非常に高度な技術が要求されます。
明和海運の保有するケミカルタンカーのうち「明和丸」が平成25年に、また平成29年には「明桜丸」がこの八幡浜の地で建造されました。

明和丸進水式

明和丸進水式

明桜丸進水式

明桜丸進水式

長い歴史と高い造船技術を誇る八幡浜は、明和海運にとって非常に縁の深い港町なのです。

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