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第62回船乗りたちの道しるべ

部崎? 神子元? 来島?
陸上に住む一般の人々にはいまひとつ馴染みのない、読み方すらよく分からない地名ですが、日本の沿岸には海で生きている船乗りたちにとって大昔から自分の現在位置を確認したり、進むべき方向の目印にしたり、時には悪天候による遭難から命を守るために避難したりする大切な地点が数多くあります。
このシリーズではこのように船乗りたちにとって大切な道しるべとなる場所をご紹介していきます。

Vol.20 阿多田島(あたたじま)

今回は阿多田島をご紹介いたします。
この島は山口県岩国市の沖合に浮かぶ面積僅か2.41㎢、集落が一つだけの人口270名ほどの小さな島です。

「あたたじま」という特徴的な名前の由来は瀬戸内の温暖な気候による「あたたかい島」が訛って「あたたじま」と呼ばれるようになったと言われています。

本土までの距離は山口県岩国市の方が近いのですが、行政上は広島県大竹市に所属しています。そのため、本土へは大竹市の小方港との間が唯一の航路であり、所要時間約35分の連絡船が一日5往復して島民の貴重な足として活躍しています。

阿多田島と北東に隣接する猪子島と呼ばれる小さな島とは防波堤で繋がっており、阿多田島と猪子島を一体とした島の主要産業は漁業と水産加工業です。

ここは、かつては江戸時代から続くイワシ網漁業が盛んでしたが、現在はハマチ、鯛、牡蠣などの養殖が盛んにおこなわれており、県内でも有数の漁獲量を誇っています。また島で釣れる豊富な魚を目当てに、週末には多くの釣り客が押し寄せ、その釣り客を相手にした海上の釣り堀は大変賑わっています。

しかし、漁業の盛んなこの島でも他の離島と同様に高齢化が進行しつつあります。島内唯一の小学校であった阿多田小学校は平成25年にはついに廃校となり、体育館のみを残して校舎は取り壊されてしまいました。

そのため今では子供たちは毎日、連絡船に乗って本土の小方小学校へ通学しています。

島民の貴重な足である阿多田島フェリーと船内の学生室

島民の貴重な足である阿多田島フェリーと船内の学生室

阿多田島は非常に小さな島にもかかわらず、広島湾の入り口に位置することから、島の東の沖合3キロにある白石礁という岩礁に設置された安芸白石灯標を管理する目的で島の東南部に明治36年に白石挂灯立標(けいとうりゅうひょう)吏員退息所が設けられました。

当時の広島湾は明治22年、呉に大日本帝国海軍鎮守府が開府したのに続いて明治28年に日清戦争が勃発した際には、宇品港が陸軍の兵站基地として利用されるなど軍事的に非常に重要な施設がありました。そのため軍用艦船の運航のために多くの航路標識が設置されたのですが、安芸白石灯標もその一つだったのです。

しかし、第二次世界大戦末期には米軍機の機銃掃射を受けて安芸白石灯標は灯器の部分を破壊されてしまいました。その時の弾痕は今でも残っているそうです。

一方、白石挂灯立標吏員退息所は戦後の昭和28年に安芸白石航路標識事務所と名称変更されましたが、昭和58年には業務が広島航路標識事務所へ集約されたため、その役割を終えました。今では大竹市立「海の家あたた」の付属施設である阿多田島灯台資料館として一般に開放されています。

しかし、瀬戸内のこんな小さな島にも日清戦争から第二次世界大戦まで長く続いた戦争の時代の遺物が残されているとは不思議な気持ちがします。

安芸白石灯標 画像提供 第六管区海上保安本部

安芸白石灯標
画像提供 第六管区海上保安本部

明和海運の運航するケミカルタンカーは液体ケミカル貨物の積み揚げを行うために、毎日のように岩国港や大竹港に入出港しています。

その際には阿多田島のすぐそばを通ることになるのですが、その島影は、方角の目印になると同時に、入港時には間もなく到着するという安堵感、そして出港時には新しい航海が始まったという新鮮な使命感を船乗りたちに与えていることでしょう。

もしかしたら、戦時中に軍艦に乗艦していた多くの兵士たちも同じように、出港時にはこれから戦地に赴く緊張感を、入港時には生きて故国に帰ってきたという安堵感を感じながらこの島影を見つめていたのかもしれません。

阿多田島遠景 撮影協力 株式会社エムシー・オペレーションサポート

阿多田島遠景
撮影協力 株式会社エムシー・オペレーションサポート

阿多田島の優美な島影は、戦争の時代を経て平和な時代となって久しい現在でも変わらずに船乗りたちの道しるべとなっているのです。

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