船乗り達のみちしるべ
Vol.22 三池港
今回は三池港をご紹介いたします。
福岡県の南部、熊本県との県境に近い大牟田市の有明海に面したこの港は、日本の近代化を支えた三池炭鉱と共に発展してきました。
室町時代に近くの村の農夫に「燃える石」として発見された石炭は、江戸時代の前近代的な採掘を経て明治時代には西洋の技術を導入した近代的な炭鉱の開発により、燃料として本格的に産出されるようになりました
当初は、三池炭鉱で産出された石炭は大牟田川河口から艀(はしけ)に積まれて、約70キロメートル離れた対岸の長崎県島原半島の口之津港に運ばれた後に、大型の船に積み替えられて全国、そして海外の消費地に届けられていました。
なぜ、そのような手間もコストもかかる事をしていたかというと、当時の大牟田の海岸(有明海)は遠浅のため大型船が直接接岸できないというやむを得ない事情があったからなのです
そこで、この非効率を解消するために明治31年に石炭の積出港としての新港の計画がスタートし、幾多の苦労を重ねて明治41年に完成したのが現在の三池港です。
三池港を築港した実業家の團 琢磨(だん たくま)は、「石炭資源には限りがあるが、港を作れば石炭が無くなっても別の産業を興すことが出来る。築港は百年先の基礎になる。」という考えの元でこの事業を興しました。
三池港の築港はまさに百年後の未来を見据えた大事業だったと言えるでしょう。
この港の特徴は、何と言っても干潮時でも大型船が着底しないように、全国的にも珍しい閘門が設けられた事です。閘門内の船渠に大型船が入った後に閘門を閉め切れば、閘門の外が干潮になっても8.5メートルの水位を保つことが出来ます。これにより1万トンクラスの大型船が3隻同時に三池港へ入港する事が可能になりました。
この閘門は現在でも現役で使用されており、明治時代の構造物の耐久性には驚かされます。
また、三池港のもう一つの特徴として船舶の航路に砂が入り込まないように沖に向かって長い防砂堤が設置されています。
そのため、この港は上空から見ると、まるで長いくちばしを持ったハチドリが飛んでいるような優美な形状をしており、三池港はハチドリの英語名である「ハミングバード」という愛称で親しまれています。
なお、この港は現役の港でありながら、「明治日本の産業革命遺産製鉄・製 鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして端島炭鉱(軍艦島)や官営八幡製 鉄所等と共に平成27年に世界文化遺産に登録されています。
当社は三井化学大牟田工場で原料として使用する液体ケミカル品を、瀬戸内の各地や大分から三池港のタンクターミナルに定期的に輸送しています。
三池港へ行くには、関門海峡を通過後に壱岐付近の玄界灘を横切り、平戸から南下して長崎沖を通り島原半島をかわして最後は有明海を北上するという非常に遠回りの航海となるため、徳山や大分等からトラックならば高速道路でほんの数時間の距離のところを3日もかけて航海しなくてはなりません。
また、南国のイメージのある九州ですが、玄界灘は日本海の一部であり、冬の時期には荒々しい海へと姿を変えるため、三池港への運航は非常に厳しいものとなります。
更に三池港はハミングバードのくちばしに当たる航路が狭くて長いため、防砂堤への衝突や接触などの事故を未然に防止するという観点から、日没後の出港が認められていません。
つまり、航海中の悪天候などで少しでも入港時間が遅れると、荷役を終えて日没までに出港することが出来なくなるため、必然的に荷役が翌日になってしまいます。
その結果もう一日余計に日数が必要となって、海運会社としては、その後の運航計画に狂いが生じてしまいます。
加えて500グロストン以上の船は入出港にあたりタグボートを使用してパイロット(水先案内人)を乗船させなくてはならないという規則もあります。
当初、当社のケミカル船は499グロストンが主流の為、ほとんどの場合はこの規則には抵触しなかったのですが、最近は少し大型の船が建造されるようになり、「明桜丸」や「明翔丸」は500グロストンを僅かに超える597グロストンであるため、タグボートを使用せざるを得ません。
タグボートと言っても、大型外航船にも対応できるような大きなタグボートが使用されることもあり、本船自体とあまり大きさの変わらない巨大なタグボート2隻に挟まれるようにエスコートされている姿は、エスコートというより捕えられて連行されているような姿になり少々滑稽な感じに見えます。
100年の歴史を誇る明治日本の産業革命遺産の三池港は、近くて遠い、そして海運会社にとっては運航上の規則が大変厳しい港なのです。