明和船団オーナーズ

Vol.9 米中海運株式会社 米中新吾さん

【会社概要】

会社名
: 米中海運 株式会社
所在地
: 山口県熊毛郡上関町大字長島1551-2
社 長
: 代表取締役 米中 新吾
所有船舶
: 宝吉丸(ほうよしまる)

~オーナーへの道~

昔 (24歳) 今(34歳)

船家業でいうと私で5代目になります。先祖代々、船会社を家業としてずっと受け継いできました。
 そういう家系で生まれ育った私ですから、小さい頃から何かといえば海に行って船を見ていたし、船がドックに入ったらそこに行きペンキ塗りの手伝いをしたりしていました。

また、船に行けば乗組員も可愛がってくれましたし、そんな生活をしていたので物心ついた頃には、絵を描けと言われたら船の絵を描いていたし、保育園や小学生低学年で将来の夢について聞かれた時には、既に「船乗りになる」と答えていました。
その思いはずっとブレずに、要所要所のどこか心の中で、「うちは会社があるから、この会社を 継続させなければいけない。自分が受け継ぎ、その次の代に渡さなければならない。」という使命感がありました。自分の父親、祖父、そして祖父の兄弟がしてきたことをずっと見てきましたし、周りからも言われる訳ですよ「おい、5代目、がんばってるか?」と。そんな中で育ってくると、やはり自分がやらなければいけない、という使命感みたいなものが自然と芽生えてくるのです。
 大学は機械工学部に進みました。最初は経営学部に行こうとも考えていたのですが、父が経営学部出身で、経営は社会人になって自分の感性で勉強すればいい、今は自分の好きなことをしたらいいと言ってくれたので、機械工学部のある福岡の大学に行くことにしました。卒業する頃、母親の体の調子が悪いので、急遽、会社にそのまま戻ってこいという話になり、卒業後はすぐに実家に戻り父の会社に入ることになりました。
 そこからですね、私のオーナーへの道が始まったのは。私の父はとても厳しい人でしたので、船主会等で東京に行くときに一緒についてきてくれたのは、1回きりでした。その次からの船主会から何もかも、全部お前が行けと言われました。1回目は、父が一緒についてきてくれたので、周りから息子さんですかと言って名刺を持って寄ってきてくれて、一緒にがんばろうなと温かい声をかけてくれたのですが、その次の会合に一人で行った時、誰一人寄ってこない、私はただの若者ですよ。ただの若者がきたぞ、くらいな感じで。社会人の厳しさを思い知らされた時期でもありました。
 ただ、父からの指示は、「東京に出張費をかけて行くのなら、何かを持って帰ってこい、何かを持ってこれるまで帰ってくるな」でした。これが、何かを持って帰ってこいと言われても、何を持って帰ればいいか分からず、考える日々が続きました。色々な会合に出ては、片っ端から積極的に名刺を配って歩く、そんなことをしている内に、面白い奴だなと目をかけてくれる人や話を聞いてくれる人が現れました。私は自分の思いを伝えました、「私はどうにか自分の力で、まずは何か一つをやり遂げたい。だから、何かチャンスが欲しい。」と。
その頃からです、自分が切り開いた人脈というものが少しずつできてきて、広がっていきました。それまでは、どこに行っても「親父さん元気か?」から始まって、最後は「まあ、親父さんにそう言っておいてくれ」という感じでした。それが、人脈を自分で切り開いていくことで、少しずつ面白くなってきました。今から思えば、学校を卒業したばかりの22-3歳の若僧の頃のことですから、仕方ないんですけどね。
 父には提案を持って行ってはすぐ潰されるという連続で、くやしい思いをずっとしていました。
父からすれば、恐らく父が納得できるまでのものを私が組み立てて持って来いということだったのだと思います。ある時、肩書だけであまりにも給料が少ないので父に不満を言ったとき、「お前は自分の力で一銭も稼いでいない。自分で稼いでから、初めて一人前にものを言え」と言われました。これはくやしかったですね。その後は、自分で絶対何かを成し遂げてやろうという思いを強めました。こういったくやしい経験が、少しずつハングリー精神に繋がっているのだと思います。
 当社は外航船も所有しているのですが、これは私が父に提案して初めて実現したものです。後から聞いた話ですが、父の中でも、外航船を持つという考えは温めていたようなのですが、「今からの時代はお前がやっていくのだから、お前から話が出てくるまで少し様子を見ていたんだ。まあ、やっぱり言ってきたか」と。
 父から受け継いだものをしっかりと守り、また次の代に渡せる形を作り上げること、これが5代目である私の使命です。

~大切にしていること~

(米中市寿会長(中央下)とお孫さん達)

私が一番大切にしていることは、家業と一族の継続です。はっきりとした記録には残っていないのですが、1代目は江戸時代に米商人から帆掛船で輸送業に転身したと聞かされています。その後、木帆船となり、貨物船を持ち、重油船に代わり、タンカーオーナーとなりました。
今まで代々繋がってきたものを後世にしっかりと渡す。これを第一に考えています。この中で自分が何をすべきなのか、次の代に渡すために、どういう形にしてあげたらいいのか、それを考えなくてはいけません。

とんでもない形にして渡したら、次の代が大変なことになってしまう。内航船と外航船のウェイトをどうしていくのか等、色々考えなくてはいけないことがあります。
それと、勤めてくれている乗組員と従業員、そしてその家族を自分が最後まで守れなくてはいけませんから、それは自分の責任としてちゃんと出来るように考えています。それには、安全を堅持するというのは基本ですが、私の経営方針がブレないことが一番重要だと考えています。私が立てたビジョンに向かって進んでいかなくてはいけません。私がブレれば皆不安になるだろうし、この会社大丈夫なんだろうかということになったら、皆についてきてもらえなくなるだろうと思います。やはり、私がこの方向で行くぞという、これだけは示さなければいけないと考えています。

~オーナーってどんな人?(弟談)~

(米中寿志さん) (米中新吾さん)

普段でも船のことばかり考えています。
社長としては「堅い」人です。どんな案件でも不安を感じたら、決して手を出しません。石橋を叩いて、叩いて、壊れるんじゃないかと思うほど叩いて渡る、慎重な人です。だから、私も安心しています。
 兄としては、私が中学3年になるまでは、毎日ケンカをしていました。たいした理由もなく、殴り合いのケンカです。ただ、兄とは3歳差だったので、私が高校生になると、兄は大学で福岡に行ってしまい、ケンカをする相手がいなくなり、逆に寂しくなってしまいました。

不思議なもので、それからはとても仲が良くなりました。兄が休みで福岡の大学から帰ってきたら、どこか二人で遊びに行ったり、そういうことが増えていきました。私は最初からこの会社に入った訳ではなく、その前は違う会社の船に乗っていたので、その頃はよく連絡をくれました。母の具合が悪くなり、私も実家に戻ってこの会社に入ったのですが、親族愛がとても強く、結束が固いです。春になれば花見で集まり、夏は花火大会を兄の家から見たりと、親族を集めて食事会などをしています。

(米中新吾さん) (米中寿志さん)

また、昔からバイクが好きで、バイクの話になると熱が入り、ついつい話が長くなってしまいます。若干、オタクでしょうか。仕事の時は厳しいのですが、普段はお茶目でヤンチャ系です。外見は怖いんですが。。。
 とにかく、父が厳しい人で、獅子が子供を谷底へ落とす教育をしていたので、だからこそ、人の痛みや苦しみも分かる人になったのだと思います。

~オーナーさんのとっておき!~

上関の瀬戸

NHK「鳩子の海」の舞台にもなった「上関の瀬戸」
上関大橋から見る景色がお薦めです!

 右の写真で上が長島の上関、下が本州側の室津です。この両地区が挟む海峡は、かつて瀬戸内海の海上交通の拠点でした。「関」の名が示すとおり、中世の上関は沖を通行する船舶を監視する海関として大きな重要性を持っていました。今では、その幅の狭さから航海上の難所としても知られています。
港町は、周囲を囲む長島と熊毛半島によって波と風から守られた良港で、周防灘・豊後水道と安芸灘を結ぶ要衝を占め、平安時代には形成されていました。村上水軍も居城しており、16世紀後半、上関の村上武満は豊後水道から瀬戸内海に入る船舶から駄別銭の徴収を行っており、上関が村上氏の西の重要拠点になっていました。

江戸時代には朝鮮通信使(徳川幕府が外交関係を結んだ朝鮮王朝からの親善外交使節団)の来航も受け、参勤交代の船や商業船も行き交って、港は大変な賑わいだったようです。
 1974年4月1日から1975年4月5日まで放送されたNHK連続テレビ小説「鳩子の海」の舞台ともなり、その名にちなんだ「鳩子の湯」は、かつて瀬戸内の絶景を愉しみながら旅の疲れを癒した風光明媚な名跡にできた温泉施設で、地元の人や観光客の憩いの場所となっています。
 昭和44年(1969年)6月21日に両地区を結ぶ橋「上関大橋」が架けられ、そこから見る景色は絶景です。
 是非、かつての瀬戸内海の海上交通の拠点「上関の瀬戸」に一度、足を運んでみてください!