明和徒然日記
第11回 夕暮れ時の匂い
ある秋の休日、都心で用事があったついでに学生時代に住んでいた中央線沿線の街を
久しぶりに尋ねてみた。
当時からある駅前の牛丼屋で遅い昼食を済ませた後、特に目的もなくぶらぶら散策し
ていると、ふと何かが違うという感覚に襲われた。
何十年も過ぎているのである程度街並みが変わっているのは当然だ。
しかし、それだけではない。
最初のうちはその違和感の原因が分からなかったが、しばらくして気がついた。
匂いがしないのだ。
いやな臭いではない。
銭湯が薪を焚く煙の匂いがしないのだ。
学生時代は風呂無しの下宿に住んでいたので近くの銭湯のお世話になっていた。
当時の銭湯は廃材などの木材を焚いてお湯を沸かしていたので当然のことながら煙突からは煙がもくもくと出ていた。
白い煙の時もあれば黒い煙の時もあったように思う。
しかし、今では各家庭に風呂があるのが当たり前だし、当時はまだ沢山あった風呂無しの下宿屋も昨今はワンルームマンション等に建て替えられて、多くの銭湯は廃業の
憂き目にあっているという。
利用者数が減った上に維持費や税金の事などを考えると廃業してビルやマンションにでもしてしまった方が経済的にも理に適っているのかもしれない。
ご多分に漏れず私が通っていた銭湯も、影も形も無くなっており跡地に建っているマンションの一階にはおしゃれなカフェが入っていて結構繁盛しているようだ。
記憶が曖昧なのだが、その銭湯は午後3時か4時くらいにはもう営業していたと思う。
夕方近くになると薪を焚く煙の匂いが風に乗ってあたり一面に漂っていた。
ちょうど大学の授業で出された沢山の課題を抱えて駅から下宿に向かって歩いていた時間だ。
当時は当たり前すぎて気にもしていなかったが、今にして思えば懐かしい夕暮れ時の匂いである。
そういえば以前は落ち葉を集めて当たり前のように庭先で燃やしていた焚火も煙が出るなどと迷惑行為扱いされるようになり都会では殆ど見かけることが無い。
煙や二酸化炭素を出さない事はカーボンニュートラルには大切な事だが世の中は清潔さと便利さばかりを追いかけて何か大切なものを置き去りにしてきたような気がする。
ご近所のお年寄り同士の裸の付き合いや、洗い場を走り回る他人の子供を危ないと本気で叱っているオヤジなど当時の銭湯には独特な世界が広がっていた。
「そういえば番台のおばちゃんが駅前の映画館の券をくれたこともあったなぁ。」などと思い出に浸っていると、手足を伸ばせる大きな風呂が無性に恋しくなった。
筆者 佐藤兼好
夕暮れ時の阿佐ヶ谷駅